備忘録

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2019年度阪大国語の悪問


タイトルの通り、2019年度阪大国語の悪問について、それがどう悪問なのかを解説する。扱うのは、2019年度阪大国語文学部大問1の問三である。
https://www.osaka-u.ac.jp/ja/admissions/faculty/general/files/4vu3gm/@@download/file
このpdfに本文及び設問が載っているので先に目を通してもらうのが望ましいが、必要な箇所は適宜引用していく。

本文は山上浩嗣パスカル『パンセ』を楽しむ』であり、抜かれた箇所の要旨は簡潔に以下のようなものである:人の欠点を誠実に公正に指摘することはその人にとって益であるはずである。にもかかわらず、人は自己愛ゆえに自己の欠陥を自分にも他人にも隠すことを望み、また相手の意を汲むことが大概自分にとって益となるがために、人々は相互に欺瞞を生み出すこととなる。

論旨も論理展開も明快で、理解に困難はない。


問題となる箇所をひとまず引用しよう。

[…]私と他者は相互に錯誤を求め、与えあっている。第一に、私は自分をだましてくれる他者のおかげで、自分の欠陥を直視せず、美化された姿を真実だと思いこむ。第二に、私も同様に、他者の短所には目をつむり、相手に自分が実際以上に優れた存在であると思いこませる。このとき、私も他者も、互いに相手に感謝し、それに報いようとさえするが、実は両者とも、そのようにふるまうのは、(b)相手の益ではなく、自分の益のためにすぎない。(p.2)

問三 傍線部(b)「相手の益ではなく、自分の益のためにすぎない」とは、どのようなことをいうのか、本文中で述べられている「益」には二通りの意味があることをふまえながら、わかりやすく説明しなさい。(p.4)


引用のみを見たならば、設問の不自然さに気づく人も多いだろう。設問曰く、「益」には二通りの意味がある。その二つを別の意味とまで言えるかは疑問にせよ、言わんとすることは明らかで、一方は「自らの欠点を指摘されたりして気づくことによる益(以下、益₁)」、もう一方は「(近眼的に)快を得たり不快を避けたりするといった俗な益(以下、益₂)」である。「益」は確かに本文中においてそのように二通りの仕方で用いられている。先の引用以外で「益」という語が使用されている箇所を以下に全て挙げる。

[…]他人が私の欠点を見ぬき、それを指摘してくれる場合、彼は公正であり、その指摘は私の益になるはずだが、私はそのようなふるまいに嫌悪感を抱く。(p.1)

真理を告げると、告げられた相手には益をもたらすが、告げる側は、相手に嫌われてしまうので、損をこうむることになる。そこで、君主のそばで生活する人々は、自分が仕える君主の益よりも自分の益のほうを尊重するので、自分たちが損をしてまで相手に益を与えようなどとは考えないのである。(p.2)

[…]その私の本心は、単なる悪口ではなく真実を含んでおり、本来ならAが聞き入れればAの益になるはずのものである。(p.3)


設問に「本文中で述べられている『益』には二通りの意味があることをふまえながら」という文言を付した意図は明白であり、「相手の益」が益₁、「自分の益」が益₂だと示して答えよ、ということである。

実際、阪大が公表した解答例を見てもそうなっている。

問三 「益」には、不快であっても公正に自らの欠点を指摘してもらうような「益」と、不正であっても欠点の指摘などは受けず、ほめられる(美化される)ことで、喜ばせてもらうような「益」があるが、(私と他者が相互に錯誤を求め合うのは)前者ではなく、後者を求めているということ。



ここまで来れば私の意図もまた明白だろう。本当に「相手の益」は益₁で、「自分の益」は益₂なのか、というのがここで問題にしたいことである。

しかし、率直に言って、そうとることはかなり無理がある。が、順を追って話すとすると、そうとる立場の人間が論拠として挙げるのはおそらく、上で挙げた3箇所を典型とする、自らの益₂をとって他者の欠点を見逃すか、相手の益₁をとって指摘するかの対比構造である。確かに、私と他者が「相互に錯誤を求め、与えあっている」とき、共に自らの益₂をとり、相手の益₁を無視している。しかし、これは別の観点では、共に自らの益₂を満たそうとし、結果として相手の益₂をも満たしている構図とも言える。つまり、この状況において、私と他者は「相手の益₁ではなく、自分の益₂のために」ふるまっていると同時に「相手の益₂ではなく、自分の益₂のために」もふるまっている。

この時点で、二通りの解釈の可能性を考慮しなければならないとひとまずは言える。他に考慮すべき解釈は「相手の益₁or₂ではなく、自分の益₁or₂のために」という、そもそも益を区別しない解釈で、これも十分に可能な解釈だと思うが、「相手の益₂ではなく、自分の益₂のために」とほぼ同じ論拠で可能なことが示せるため、以下ではそちらのみを扱う。これら以外の解釈は考慮せずともいいだろう。


さて、話が変わるようだが、次の例文を見てもらいたい。

A:えっ。この弁当、俺に……? 

B:べ、別にアンタのために作ってきたんじゃないんだからねっ!たまたま作りすぎちゃっただけなんだからっ!

ここにおいて、Bさんは弁当を余分に作ってきたことの解釈としてありうる二つ(Aさんのために作った、意図せず作りすぎた)を提示し、真実は前者ではなく後者である、と主張している。ここでもしBさんが「べ、別に(意図通りに)自分の分だけ作ったんじゃないんだからねっ!(意図せず)たまたま作りすぎちゃっただけだからっ!」と言ったならば、Aさんはまず意味がわからなくて目を白黒させるだろう。ある理由の可能性を否定する必要性が生じるのは、その出来事がその理由によって説明しうる時のみだからだ。

ここで再度、問題の箇所を見てみよう。

[…]私と他者は相互に錯誤を求め、与えあっている。第一に、私は自分をだましてくれる他者のおかげで、自分の欠陥を直視せず、美化された姿を真実だと思いこむ。第二に、私も同様に、他者の短所には目をつむり、相手に自分が実際以上に優れた存在であると思いこませる。このとき、私も他者も、互いに相手に感謝し、それに報いようとさえするが、実は両者とも、そのようにふるまうのは、相手の益ではなく、自分の益のためにすぎない。(p.2)


「相互に錯誤を求め、与えあ」うことは、相手の益₁によって説明しうることだとは到底思えない。「そのようにふるまうのは、相手の益₁ではなく、自分の益₂のためにすぎない」をわかりやすいようにパラフレーズすれば、「相手の欠陥を指摘しないのは、相手の欠陥を指摘することで相手にもたらされる益ではなく、相手の欠陥を指摘しない・自分の欠陥を指摘されないことで自らにもたらされる益のためにすぎない」とでもなろう。そこに「実は」と言えるような意外性は全く見当たらないし、「互いに感謝し、それに報いようとさえ」したことが影響を及ぼすような事柄も全く見当たらない。

一方、「そのようにふるまうのは、相手の益₂ではなく、自分の益₂のためにすぎない」とする解釈は以上の条件にぴったり当てはまる。すなわち、相手の欠陥を指摘しないのは相手の益₂のためかと思いきや、実は自分の益₂のためにすぎないのであり、相手に感謝し報いようとしていてもなお(!)そうなのである。

ゆえに、ほぼ必然的に「相手の益₁/自分の益₂」解釈は誤りで、正しい解釈は「相手の益₂/自分の益₂」であると言える。よって、出されるべきだった解答例は次のようになろう。

改訂案: 「益」には、不快であっても公正に自らの欠点を指摘してもらうような「益」と、不正であっても欠点の指摘などは受けず、ほめられる(美化される)ことで、喜ばせてもらうような「益」があるが、(私と他者が相互に錯誤を求め合うのは)互いに相手ではなく自らの後者の益を求めているということ。

元の解答例は、はっきり言って設問者の誤読である。出題側が間違ってしまっては世話がない。誤読を前提にした設問は受験生を不要に惑わせる全くの悪問というよりほかない。


しかし、「国語はそもそも客観的な正しさの保証される科目ではなく、設問者におもねる科目なのだ」と言う人もいるかもしれない。それは一面の真理でもある。だから、本稿の批判が正答を変えうるほどものなのかはわからない。

だが、そんなことはある意味どうだっていい。書き手の意図が存在し、文法的に許される解釈が存在し、文章全体に最大限一貫性を成り立たせる読みが存在する。そのことを信じていない限り、およそ読書なるものは不可能である。読みとるべきものが存在しなくなるからだ。好き勝手にストーリーを妄想しても読めているとは到底言えない。

それゆえ、どんな解もその蓋然性を問いうる。設問者の意図を過剰に組んだ解答が客観的にはどれほどの妥当性を持つのかを更に問うことができる。その限りで、本稿の批判の正しさは揺るがないだろう。設問がその意味で破綻していることに気が付かなかったならば、「正答」がどうであれ、読解を誤っていたという非は免れえまい。とりわけ作問し教授する人々の間でまかり通るのであれば、それは、ひいては国語という科目の価値を著しく棄損する非である。

「ここで文句を言ったら自分に問題作成が押し付けられる」と自分の益のために世話を焼くのを避けた大学教員が、「下手に追及したら大学が解答例を発表してくれなくなる」と自分の益のために目をつむり真実を語らなかった予備校講師が、当時いたことを願ってやまない。