備忘録

俺は早朝に飛び立つ

永井均『転校生とブラックジャック ──独在性をめぐるセミナー──』(2001→2010, 岩波現代文庫)

以前に人に勧めたこともあって、このメモは哲学をあまり知らない人の読み進める助けになることも意図して書いた。ので適宜参考にしてください。
文庫版のページ数を記載しているので、単行本を読んでいる人にとっては少々不便かもしれない。

序章 火星に行った私は私か

■3
「この問題[=私が対等に分裂したとするとどちらか一方が私になるという問題]は重大である。なぜなら、こんな空想的な場面ではなく、この現実において、特定の人物が私であるという事実が存在しているのは、いわば〈神〉によるこの種の原初の選択がすでになされていることを示しているからである。」

この意味するところは初読ではわからないかもしれないけど、気にせず読み進めればいいと思う。次第にわかってくるはず。
〈神〉という意匠が嫌いならば〈偶然〉と読み替えてもいい(と、どこかで永井均自身が言っていた)。

第1章 人称の秘密──デカルト省察』からの逸脱セミナー

■10-11
ある世界の内部の/一部である存在者にとってはその世界こそが現実である、というのはごもっとも。そこまで直感的でないからこそ理解して心から納得するまで考える必要があるよ。

■12-14
学生Dの言う「これ」がわからぬ。

・「これは夢じゃないか」って疑うときの「これ」であり、
学生D曰く
・つねに必ず現実で、
・その外とは「目覚めた」といえるような連続性がないために、外へ出てしまう可能性をその中で考えることはできないものであり、
学生E曰く
・存在の意味自体が、外部から実在性の判定がなされることを拒否するようにできているから、「ほんとうは存在しないもの」であることができない。
が、先生曰く
・覚めてから「あれは夢だった」と思えるその可能性を先取りして「夢かもしれない」と疑える(その点で連続性がある)ものであり、
・悪霊にだまされて成立しているなら「じつは偽である」といえるように、じつは夢であることもできるもの。

「これ」は「その主体にとっての世界」と呼ぶのがいちばん近い気がしてきた。
学生Bの主張
「世界が異なれば主体も別であるから、どの主体にとっても必ずその世界が現実だ」
に対して、
「主体にとってはその世界の中でしかものが考えられないからその世界が現実である」
と言ってるんじゃないか。
学生Bの主張における「世界」よりは少し広いものを指すかもしれないけど。「目覚めたといえるならそれは依然として「これ」の中」なので。
なんとなくわかったけど、なんとなくわかった状態が一番よくないので自戒。

■17-18
認識論、意味論、現象学分析哲学現象学的還元、言語ゲームと哲学用語満載すぎる。わからなかったら読み飛ばしてくれていいと思うけど、一応拙い知識でざっくり説明しとくので話半分でどうぞ。

認識論:われわれが何を/いかに認識しているかを探究する。

意味論:われわれのもつ概念がどうであるかについて探究する。

現象学:われわれにとって現れているもの(〜われわれが認識するもの)をありのままに捉えようとする哲学の分野。

分析哲学:議論を明瞭に整理し、概念を分析する哲学の分野。

現象学的還元:現れているものを、何と把握する以前の"見え"そのものに引き戻して見ること(視覚に限らず)。

言語ゲーム:われわれの言語の使用や、その話される場面・条件・脈絡の全て。それが「ゲーム」たる所以は、その行為の意味の源泉を外部に持たないことにある。言語ゲームに意味や意志を求めることもまた言語ゲームのひとこまであり、その外に出ることはできない。「このような言語ゲームが行われている」ことを根源的と見なす言語観。

■23
「私はほんとうは存在しない」と言うときの「私」は、どういう出自で、どんな記憶を持っていて、身長体重はどうで、容姿はどうで……というようなある特定の人物のことを指している。10-11で学生Bが言っていた「ぼく」のような意味での「私」。

■27
(きみの言う)「これ」は「きみの世界」だ、とはっきり出てきた。「その主体にとっての世界」みたいな説明をしなかったのは、それはつまりどの主体かということこそが問題だったからっぽいね。

■33
先生曰く
「その意味では、独我論独我論として成立したときには独我論の否定を含んでしまっているともいえる。」

これは多分、「《私》=《これ(世界)》」が言えたときには他の《私》が存在しうることをも示してしまっている、ということ。

■35-36
学生G曰く
「ぼくとGとの関係では、認識論と存在論は独立していることができないんですよ。それがデカルト的認識の本質だと思うんです。だから、「紫式部源氏物語を書かないこともありえた」に対応しているはずの、存在論﹅﹅﹅的でしかも過去﹅﹅形の「ぼくがGでないこともありえた」が、ここにおいてだけ、現実﹅﹅認識論﹅﹅﹅的事実から遡及的に構成可能なんですよ。存在が認識によって構成可能なんです、しかも時間を超えてです。」

どういうことだってばよ。
存在論は文字通り、何が/いかに存在するかについて扱うもの。
先生曰く「これからのセミナーで問題にしていく」そうなので一旦放置。

■38
先生曰く
「でもほんとうは、その[=諸世界の]うちひとつが、なぜかまさにこれ﹅﹅なんだよ。それが現実﹅﹅だ。」

初読ではわからないかもしれないけど読み進めて2。

第2章 私的規則の本質──Dのレポート

■41
「記憶ちがいということがありうるためには、それが記憶ちがいであることが分かることにおける(過去の自分と現在の自分の)「一致」にあたる何かが働いていなければならないだろう。」

比べているのは、自明ながら、過去の自分がその時点で経験したものと現在の自分が振り返ったそれ(=記憶)ね。

■46-47
「もし規則の変化が認識され、それが記憶されるなら、その認識や記憶は、変化したその規則には従ってはいないことになる。それなら、その変化を認識し記憶できるための言語規則はいったいどこにあるのか。言葉の意味の規則は、何かを認識し語るための枠組みをはじめて作り出すのだから、認識も記憶もその規則に依拠して成り立つほかないのだ。」

もっともな話だけど、他方で、(記憶力が優れていたら)私的な青(今の自分が青と呼ぶようになったもの)を指して「赤」と言っていたのを覚えていることは可能だよね。なぜなら「赤」などの音声は同様に認識・記憶しているから。だから、「私は青を「赤」と呼んでいた」と語ることならばできる。これって想像してみるとすごく奇妙でおもしろい。

■47
「「きみは過去においてじつはクワスを意図していたのではないか?」と問われたなら、「いえ、プラスです」という確信に満ちた現在﹅﹅の応答こそが過去の事実を構成﹅﹅するのである。懐疑論者がさらに「いや、きみが考えているそのプラスがじつはクワスであった可能性をきみはどうして否定できるのか?」と問うなら、冒頭に述べた理由により「その問いには意味がない」と答えるべきだろう。」

ここだけ引用しても仕方ないけど、エグいくらい腑に落ちた。すごい。
なぜその規則を(クワスじゃなくてプラスを)選んでいるのかにはまた別の理由を与えられるだろうけれどね。


個々の論証(argument)は追えても、論証同士の繋がりというか話の流れを把握するの苦手すぎる😭
どうやって訓練すればいいですか😭😭😭

第3章 「転校生とブラックジャック」──本文の提示と、それをめぐる短いセミナー──

運命論の証明(p9)の敷衍と論駁

1. 準備

A, B, C……:「5/18に太郎が朝食にカレーを食べた」などの具体的な特定の事象、およびそれと後述の記号を組み合わせたもの。例えば、「5/18に太郎が朝食にカレーを食べ、かつ5/18に私は人間学の講義に出た」など。
※真である事象に限らない。すなわち、「5/18に私は人間学の講義に出なかった」なども含まれる。
※運命論に関連する範囲の議論なので、「三角形の内角の和は180°である」など出来事ではないものは含まない。とりわけ既に起きた出来事を考える。

A∧B:Aであり、かつBである。
表にすると以下。T=真、F=偽。

A B A∧B
T T T
T F F
F T F
F F F

A∨B:AまたはBの少なくともどちらかである。

A B A∨B
T T T
T F T
F T T
F F F

¬A:Aでない。
※意味を考えれば明らかだが、¬¬A=A

A ¬A
T F
F T

A→B:AでないかBであるかのどちらかである。¬A∨B。
※「ならば」と読まれるが、日常生活における「ならば」と意味がかけ離れているので注意する必要がある。詳しい話は省くが、「5/18に森田先生が講義中に咳をしたか、5/18に私が人間学の講義に出なかった」は真だが、だからといって「5/18に森田先生が講義中に咳をしなかったならば、5/18に私が人間学の講義に出なかった」が真なわけがないことから何となくわかってもらえると思う。(「任意のAに関して、F(A)→G(A)」となれば、日常の「F(A)ならばG(A)」とそう変わらない。)
※意味から明らかだが、A, A→BからBが導ける(A, A→Bが真ならば、Bは真)。

A B A→B
T T T
T F F
F T T
F F T


ここで、途中計算は省くが、

P Q P→Q ¬Q→¬P ¬P∨Q ¬(P∧¬Q)
T T T T T T
T F F F F F
F T T T T T
F F T T T T

となり、
P→Q=¬Q→¬P(対偶)
¬P∨Q=¬(P∧¬Q)(ド・モルガンの法則)
が成り立つとわかる。

◇A:Aが(論理的に)可能である。論理的というのは、概念レベルで矛盾しない限り最大限に広く可能性を取って、ということである。およそ想像可能ならば論理的に可能と言える。例えば透明人間になることは論理的に可能である。

F(A):Aは不可避的に真であった。
※まず浮かぶ疑問が、F(F(…)…)と二重三重にできるのかということである。もっともな疑問であるが、あとに持ち越す。

2. 前提[P1]〜[P4]の解釈

以下4つの式が(無条件に)真である前提とされる。以下のA, Bは全て変項(特定のものを表してるのではなくて、不特定多数のものが入る)。

[P1]F(A∧B)→F(A)∧F(B)
「どのA, Bに関しても、AかつBであることが不可避でなかった、またはAが不可避的に真であったかBが不可避的に真であった」
わかりやすく言い直すと、
「あるA, Bに関して、AかつBであることが不可避であったとき、Aであったことは不可避であり、Bであったことも不可避である」

これは問題なく正しいと言えると思う。

[P2]F(A)→A
「どのAに関しても、Aが不可避的に真ではなかった、またはAであった」
すなわち、
「あるAに関して、Aが不可避的に真であったとき、実際にAであった」

これも正しいだろう。

[P3]⊢¬A/⊢¬◇A
「どのAに関しても、仮定を置かずにAでないことが導けたなら、Aである可能性はない」

「(左辺)⊢(右辺)」で「左辺から右辺が証明できる」というほどの意味。左辺がないということは無前提に/論理だけで右辺が証明できるということである。「/」は上を置くと下が導けるよ、くらいの意味。
これも問題ないと思う。

[P4]A→◇F(A)
「どのAに関しても、Aでなかった、またはAが不可避的に真であった可能性がある」
すなわち、
「あるAに関して、現実にAであったとき、Aが不可避的に真であった可能性がある」

まず、Aが何らかの事象であるとき、これはまあ正しいだろう。今考えられている可能性は論理的可能性であり、決定論的世界観(起こることは全てあらかじめ決まっているという世界観)も矛盾するものではない。この世界において決定論が成り立っているならば、いかなる出来事も不可避的に成り立っていると言えるからだ。
Aは事象の他に、事象と記号を組み合わせたものも考えられる。それに関しても[P4]が成り立つかどうかは一見して明らかではない。
が、以下ではひとまず成り立っているとして証明を追う。

3. 運命論の証明

「いかなるAについても、現実にAであったとき、それは不可避であった」、すなわち(8)A→F(A)を示すのが目標である。

〈証明〉
背理法で(4)¬F(A∧¬F(A))を示す。
(1)F(A∧¬F(A))と仮定すると、
(1), [P1]より、(2)F(A)∧F(¬F(A))
(2), [P2]より、(3)F(A)∧¬F(A)
(↑この操作は説明してないけど、意味を考えればいけるのは自明)
であるが、これは矛盾する(Aの真偽によらず常に偽になる)。
よって、(4)¬F(A∧¬F(A))
(4), [P3]より、(5)¬◇F(A∧¬F(A))
[P4]に(A∧¬F(A))を代入して、(6)(A∧¬F(A))→◇F(A∧¬F(A))
だから、(6')¬◇F(A∧¬F(A))→¬(A∧¬F(A))(◀対偶)
(5), (6')より、(7)¬(A∧¬F(A))
(7')¬A∨F(A)(◀ド・モルガンの法則)
(8)A→F(A)(◀「→」の定義)

4. 証明の検討

まず指摘できることは、(8)は、事象以外のAに関しても言ってしまっており無駄に強い主張になっていることである。とはいえ、これに関しては「いかなる事象Aについても」とすればミニマムな主張にできる。以下はそう読み替えて(それでも言えることを)論じる。

論証の過程は真っ当であるからして、証明の可否はやはり①F(△)の中にさらにF(□)を入れられるのかと②[P4]が正しいのかにかかっているだろう。

(4)¬F(A∧¬F(A))は文章にすると次:全てのAに関して、「不可避的に「Aであって、かつAであることは不可避ではなかった 」」は偽である。
これが[P1], [P2]のみから導けたわけだが、果たしてどういう意味であろうか。

また、証明で[P4]に代入されているのは(A∧¬F(A))である。全ての事象Aの中で、「Aであって、かつAであることは不可避ではなかった」ものは、「「Aであって、かつAであることは不可避ではなかった」ことは不可避的に真でありえた」とも言えるだろうか。逆に、「Aであり、かつAであることは不可避的ではないが、このことは回避しえた」とはいかなる事態か。
何か起こった出来事が不可避的でなかったとき、(少なくともその時点におけるその場所は)決定論が成り立っていなかったことを示す。決定論が成り立っていなかったこと自体が不可避であったりなかったりするとはいかなる事態か。
ある出来事が不可避的に真であったことと決定論の不/成立が不可避的に真であったこととでは、「不可避的」の意味が違うであろう。前者は世界内における未/決定が問われるのに対し、後者は、後者は……?

人間学の話題 第2回の用語整理

■何をひとつの存在者とするか
四次元主義
・時空間ひっくるめてひとつとする。
・例えば三島由紀夫なら、
 ・足先から頭まで合わせて三島由紀夫であるのと同様に、生まれてから自殺するまでの全体で三島由紀夫というひとつの存在者であり、
 ・手が三島由紀夫の部分であるのと同様に、東大で学生と討論していた時の三島由紀夫三島由紀夫の一部である。
 と捉える。

三次元主義
・ある時間において空間内に存在するのをひとつとする。
・例えばあなたなら、
 ・今はこの文章を読んでいるあなたがあなたの全てであり、
 ・2022年4月20日の11時頃においては、共C402の教室にあなたの全てが存在していた。
 と捉える。

(私)これらは両立可能な視点の違いとしか思えない。レゴブロックの家を家と見るかブロックの集まりと見るか選べと言われても困るのと同じように。


■時間に関する世界のあり方
1.現在について
われわれは今が何時何分何秒だとわかる。時計の針が指していない他の時間は今ではないと判断できる。
しかし、この文を読んでいる今現在においては、「何時何分何秒だとわか」ったのは既に過去である。つまり今ではない。
では、過去の自分は判断を誤ったのだろうか。そうとは言えないだろう。過去においては間違いなく「何時何分何秒」が今であった。
そのような、ある時点にとってのその時点自身を指す今を指標的現在と呼ぶ。

今が指標的現在に尽きるかと言えば、そうではないだろう。世界も時間内の存在であるならば、存在しているのは現在においてしかありえない。世界にとっての唯一の今を絶対的現在と呼ぶ。(世界が時間外的存在である、逆に言えば時間ごとひとつの世界であるならば、当然、絶対的現在は存在しない。)

(私)素朴に考えて、あなたがこの文章を読んでいるのが絶対的現在である。今思う、ゆえに今あり。
この立場は
「意識が絶対的現在にしかない」
というよりもむしろ、
「全てはあるなら絶対的現在にしかなく、一番確実なものは意識である」
だと思うのだけど、過去や未来と現在とで「物理的身体は全く同じ」だと認める論者とか本当にいるの?

2.世界には何があるか
現在主義
・絶対的現在だけが存在し続ける。

成長ブロック宇宙説
・過去と絶対的現在が存在し続ける。現在が過去となり積み重なっていく。

動くスポットライト説
・過去、現在、未来が既に存在し、絶対的現在がその時系列を移り変わってゆく。

静的時間論
・過去、現在、未来が既に存在し、指標的現在しか存在しない。

3.超時間について
成長ブロック宇宙説と動くスポットライト説において問題となるのは、過去と現在(と未来)が一挙に存在するのはいつにおいてなのか、である。成長したり動いたりする以上、何らかの時点を経過している必要がある。
絶対的現在においてであることはできない。なぜなら、今において過去はもう過ぎ去っているからだ。例えば成長ブロック宇宙における現在とは、ブロックの端のことであり、ブロック全体のことではなかったはずだ。現在の世界には現在の世界しか含まれない。
そこで必要となる概念が、時空の外にあるもうひとつの時間、超時間である。
過去と現在(と未来)は超時間における今(絶対的現在)に積み重なっていると考えればひとまず問題は解決する。
が、今度はその超時間のあり方が問われることになり……と進んでいく。

(私)私の理解が正しければ、問われているのは時間についての立場というよりも超時間についての立場である。
すなわち、
・現在主義は、超時間は存在せず、絶対的現在だけが存在する立場であり、
・成長ブロック宇宙説は、超時間が存在し、そこに過去と絶対的現在がある立場であり、
・動くスポットライト説は、超時間が存在し、そこに過去、現在、未来がある立場であり、
・静的時間論は、超時間が存在せず、過去、(指標的)現在、未来がただ存在する立場である。
というように。
静的時間論は受け入れ難いにせよ、他に関してはそれを決定することに意味があるのかもそもそも決定しうるのかもわからない。物理法則を神様が決めていようがいなかろうがどうでもいいように、超時間がどうなっていようとどうでもよくない?

心身二元論における2つの説(余談)
心身が相互作用するという説
・意識は物理法則の外にあり、意識が物的世界に働きかけることができる。
・物理法則で物理現象を説明しきれなくなるのでこれまでの(簡潔な)科学的世界観との相性がよくない。
・意識が脳に宿るものだとすると、脳という物理法則に従うもので構成されているものから物理法則外のものがいかにして生まれるのか、という問題がある。

随伴現象説
・意識は脳やらの物理的な反応に付随する(物理法則に組み込まれている)ものであり、意識は受動的なものである。
・われわれの「自分"が"何かをしている」という直感に反する。

(私)どうでもいいけど自分は、この世界において随伴現象説が成り立っているだろうと割と本気で思ってる。心的現象無しに全ての物的現象を説明できようが、現に(少なくとも私自身の意識という確実な例がひとつ)存在するから仕方ないもんね。