なぜこの人が私なのか──永井哲学をつくる

私である(という、他の人とはまったく違うあり方をした)人がいるとはどういうことだろうか。

主に永井均によって切り開かれ、探究が積み重ねられてきたひとつの問題圏がある。 その出発点にして核となる問いが冒頭の問いである。これはいったい何を問うている問いなのだろうか。これまで永井自身によって、幾度となく説明が重ねられてきた(永井は、この問いの最短の説明として「自分とは何か──存在の孤独な祝祭」『哲学の密かな闘い』を、永井哲学の入門として『哲おじさんと学くん』をそれぞれ挙げている)。

この問いの意味するところが自然と理解できる人もいるだろうが、他方で、なかなかその真意を掴みかねる人も少なくないだろう。私自身がそうだった。本記事では、そのような人にも説得的であることを意図して、新たに説明を試みる。この記事に価値があるとすれば、それはその念入りな説明によるものである。

この記事の前半では、私である人が他人とはまったく違うあり方をしていることを論じる。後半では、そのことの独特の言えなさについて論じる。前半で言われたことが後半では言えないと否定されるため、言えているのか言えていないのか初めは混乱するかもしれない。だが、両者の関係が理解できたなら、最初の問いの意味は十分に理解されたといえるだろう。

これからなされる議論は(後半で言われるような事情によって)特殊な一般論でもあらざるをえないのだが、端緒の問いは一般論であることこそを拒絶する問いである。それゆえ、まずは、誰にでも言われることではなく、あなたにだけ言われていることとして読んでいただく必要がある。

1 〈私〉は独在する

1.1 私であるというあり方

この記事には「なぜこの人が私なのか」というタイトルをつけた。これは、この人だけが私であるという奇妙なあり方をしていることに対する疑問ないし驚きの表明である。しかし、一見して何が奇妙なのかよくわからなくても不思議ではない。誰をとっても、その人にとってその人自身は私であるというあり方をしている。私にとってはこの人がそうであった。私であるというあり方が確かに奇妙であるとしても、私にとってこの人がそういうあり方をしているのは私がこの人であるからにすぎない。どの人もその当人にとって奇妙だ。そのように言うこともできるからだ。

だが、そう結論づける前に、まずは私であるというあり方がどう奇妙なのかを見てみよう。率直に言って、私である人はそれ以外の人とはきわめて異なったあり方をしている。直接与えられるのは、私である人が見、私である人が聞き、思考し、想像し、思い出し、予期し、といったものばかりで、他の人のそれらは少しも直に経験されることがない。私にとって他人のそれらは、実はあったり実はなかったりしても変わらないあり方をしている。他人は意識を持たないモノなのではないかという懐疑論も、このような私と他人のあり方の違いの上に立てられた問題だろう。

この懐疑論を論駁しうるのかはここでは問題ではなく、重要なのは、他人が問題なく存在しているとしても、ともあれ、私と他人にはそのような非対称性があるということである。というよりその非対称性こそが、一方は私であり一方は他人であるということの意味だろう。前段落で「直接与えられるのは、私である人が見、私である人が聞き、思考し、想像し、思い出し、予期し、といったものばかりで、他の人のそれらは少しも直に経験されることがない」と言ったが、むしろ、直接与えられる見えや聞こえや思考や……こそが私のそれである、という側面がある。たとえば、突如他人の左脚に痛みが感じられたとしても、他人も同じ箇所に痛みを感じているかにかかわらず、それは直接感じられた痛みであるという点において、私の痛みといえるだろう。逆に言えば、その状況でも、他人の感じたその﹅﹅痛みを(すなわち他人視点のそれとして)私が感じていることはありえない。どこまで行っても私に感じられた痛みは私視点の痛みだからだ。

おそらく、自他の識別はこのことに基づいてなされている。次のような状況を考えよう。突然あなたは左右に分裂して、LとRの二人に分かれたとする。気づけばLの方があなたであった。二人は完全にそっくりで、第三者からするとどちらがあなたか識別するのはかなり難しい。しかし、あなたにとって(自分であるこの人がLと呼ばれている方かRと呼ばれている方かを忘れることがあるとしても)ともかくLであるこの人が私であると識別することは容易であるように思える。なぜだろうか。Lの見えや聞こえや思考や……が直接与えられ、Rの見えや聞こえや思考や……は与えられていないということにおいて、Lこそが私であると判断しているからではないか。LとRのそれらやその他諸性質がほぼ完全にそっくりだったとしても、そもそもその二つを見渡す地点に立っていないならば、どちらが直接与えられているものかわからなくなることはまずない。

このとき、与えられたものの内容やその他の性質によってどちらが私かを(たとえば「直接見えているLの風景がこういう内容だからLは私だ」と)判断しているとは考えがたいだろう。何が与えられていようと、それが与えられていればその人が私である。たとえば、岸田総理の目から世界が見えて、岸田総理だけが殴られたら実際に痛いとすれば、岸田総理が私である、というように。

このような意味で、私は特権的なあり方をしている。別の言い方をすれば、世界は私に中心化されたあり方をしている、とも言える。

1.2 自他の識別

以上のようなあり方を認めたとしても、やはりそれは、私にとってはこの人が特権的なあり方をしている、というだけのことだろう。誰にとってもその人自身が特権的なあり方をしているはずだ、というのが1.1の冒頭で言われたことであった。だから皆、結局は同じあり方をしていて、その意味で私と他人に非対称性はないのだ、と。確かにそうも言える。

しかし、そのとき問題になるのは、自他の識別である。1.1で私は、自他の識別は自他の非対称性に基づいてなされると言った。結局私と他人に非対称性がないのだとすると、その「自他の非対称性」はその人にとっての自他の非対称性にすぎないことになる。問題は、それだけでは自他を識別できないように思われることにある。

どの人が私であるか識別する場面を考えよう。仮に世界にA、B、C、D、Eの五人がいて、そのうちDが私であるとする。どうすればDが私であることを判別できるだろうか。Dがただその人にとっての自他の非対称性を持っていたとしても、それはDが私である理由にはならない。他のA、B、C、Eもまったく同じようにその人にとっての自他の非対称性を持っているからだ。わかることは、DにとってDが自分自身だという誰にでも言えることまでである。どの人も持っているものをDも持っていたところで、そのことによってはDが私であるか他人であるかわかるはずもないだろう。もしDの、その人にとっての自他の非対称性を特別扱いする理由があるのだとすれば、そこにはその人にとっての自他の非対称性以上のものがなければならない。

私はDが私であることを識別できるとしたら、Dにその人にとっての自他の非対称性以上のものがあるとしたら、それは一体何でありえようか。1.1で言った、「LとRのそれらやその他諸性質がほぼ完全にそっくりだったとしても、そもそもその二つを見渡す地点に立っていないならば、どちらが直接与えられているものかわからなくなることはまずない」という以上のことを、私が識別に際して使っているようには思われない。もし識別がそのようにしてなされるのならば、Dには、誰もが持っている自他の非対称性ではない、Dしか持たない自他の非対称性があると考えるより他ないのではないだろうか。いわば端的な自他の非対称性というものがあるのではないか。Dにとってそうであるにすぎないと言っても、それはその人にとっての自他の非対称性と変わらなくなり、識別できることの説明がつかない。私にとってそうであるにすぎないと言っても、それぞれの私の中からこの私をどうやって識別したのかが今度は問われることになる。そして結局は同じ結論に行き着く他ない。

世界は端的に、Dに中心化されたあり方をしている。

1.3 いびつでのっぺりした世界像

とはいえ、A、B、C、Eもどの人が自分かを識別できているだろう以上、結局のところ皆同じでしかないのではないか。AもBもCもDもEも、その人にとっての自他の非対称性ではない、端的な自他の非対称性に基づいて自分を識別しているのではないのか。

これまでの議論が正しいとすれば、識別できているだろう以上、そうでしかありえない。というより、他人も自分自身を識別できていると私が捉えているならば、そう捉えている以上、他人にも端的な自他の非対称性があると私が捉えているのでしかありえない。他人の存在自体は疑いうるかもしれないが、問題なく存在している場合はそのようなあり方で存在しているのでなければならない。これはおかしなことではある。皆それぞれ端的な自他の非対称性を持っているのであれば、それはつまるところ、その人にとっての自他の非対称性でしかありえないのではないか。しかし、おかしいのはこれまでの議論ではなく、むしろ世界のあり方のほうだろう。

これはつまり、その人にとっては、その人にとってではない端的な自他の非対称性がある、ということだろう。もちろん、他の人から見ればその人に端的な自他の非対称性なんてない。他の人にとっては他の人自身が端的な自他の非対称性を持つからだ。だが、一旦その人の立場に立ってみれば、その人自身だけが端的な自他の非対称性を持つ、というふうに世界がなっているのだろう。少なくとも、他人を自他の識別ができるようなものとして捉えている限りにおいて、世界をそう捉えていざるをえない。もし他の人からもその人に、端的な自他の非対称性があれば、そのときはもはや他の人ではありえず、もしその人にとってもその人に、その人にとっての自他の非対称性しかないのであれば、やはり自他の識別は不可能になってしまうからだ。

こうした世界のあり方は、単純に各視点が相並んでいるように平板に捉えることができない。またここでは、どれか一つの視点がただ突出している(そういう立体的なあり方をしている)と言いたいわけでもない。世界は、どの視点からしても並び立つ諸視点の中で自身の視点だけが突出しているという、一つの図に描けないねじれたあり方をしていると言いたいのだ。このことは、最終的に唯一突出している視点の有無にかかわらず、まったくの一般論として言える。このねじれた世界像はそれ自体注目に値するだろう。

1.4 独在する〈私〉

1.3では、どの人もその人にとっては、その人にとってではない端的な自他の非対称性がある、ということが言われた。さて、それでは、私の持つ端的な自他の非対称性はそのような誰しもが持つ端的な自他の非対称性に尽きるのだろうか。

再び、どの人が私であるか識別する場面を考えよう。1.2では、仮にDが私であるような世界について考えた。だがそのような世界を想定するまでもなく、私は現にこの世界でどの人が私であるか識別している。今まさにこの文章を読んでいるこの人が私である。このとき、この人の、その人にとってではない端的な自他の非対称性に基づいてその識別はなされた、とひとまずは言える。しかし、なぜこの人のそれに基づいたのだろうか。言い換えれば、なぜすでにこの人の立場に立っているのだろうか。1.3で「一旦その人の立場に立ってみれば、その人自身だけが端的な自他の非対称性を持つ」と言ったが、考えてみると、この人だけが、あらためてその人の立場に立つまでもなく端的な自他の非対称性が成り立つようなあり方をしている。なぜかこの人の端的な自他の非対称性だけが本当に端的だ、と言ってもよい。

驚くべきことだが、世界は本当にこのようになっている。世界は、その人にとってという留保抜きに、この人に中心化されたあり方をしている。そうではないだろうか。これを、この人にとってそうであるにすぎない、と言うことはできない。その人にとっての端的な自他の非対称性しかないのであれば、そのことによっては、同じように自分を識別している人たちの中で一人だけ現に私である人をさらに識別できるはずがないからだ。また、私にとってそうであるにすぎない、と言うこともできない。それぞれの私の中からこの私をさらに識別できている理由がここで問われていることだからだ。

百年前にも人はたくさんいたが、世界はそんなあり方をしていなかった。百年後にはもうそんなあり方をしていないだろう。だが今は違う。この人がいながらも変わらず平板なあり方をしている、というふうにはなっていない。世界はなんと現にこの人から開けている! そのようなあり方をしている存在のことを〈私〉と呼ぶ。今この文章を読んでいるこの人が〈私〉である。このことがまずは実感を持って理解できるようになるまで、繰り返しここまでの議論を辿ってもらいたい。

2 語りえぬ〈私〉

2.1 〈私〉とは誰のことか

〈私〉の存在こそが、この問題圏の出発点にして核である。「私である(という他の人とはまったく違うあり方をした)人がいるとはどういうことか」とは、つまり「〈私〉が存在するとはどういうことか」と言い換えられる。ところでしかし、〈私〉とは一体誰のことだろうか。もちろん、1.4の最後で言ったように、今この文章を読んでいるこの人である。だが、考えてみるとこれはおかしくはないか。というか考えてみるまでもなくおかしい。〈私〉であるのは、いつかの時点でこの文章を読んでいるあなたではなく、今この文章を書いているこの人だからだ。そもそも私が実際に呼びかけているのはあなたというよりあなた達である。〈私〉が(それぞれの)他人に「あなたは実は〈私〉なんですよ」と語りかけるとは何をしていることになるのか。読み手にとっては、もし本当にそうなのだとしても、他人が「私ではなくてあなたが〈私〉なのです」と語りかけてくるなんて酔狂としか思えないだろう。〈私〉という語の意味を誤解しているとさえ思える。

もちろん私はこれが有意味だと思っているからわざわざこんな文章を書いたのだが、なぜかというと、読み手は端的には〈私〉ではないが、それでも読み手自身にとっては〈私〉である、と捉えているからである。1.4で「…考えてみると、この人だけが、あらためてその人の立場に立つまでもなく端的な自他の非対称性が成り立つようなあり方をしている」と言ったが、他人の立場に立ってしまえば確かにそうも言える。1.3で言われたこと(どの人もその人にとっては、その人にとってではない端的な自他の非対称性がある)はつまりそういうことであった。

だとすると、1節で言われていた〈私〉は、その人にとっての〈私〉にすぎなかったことになる。書き手と読み手がいる問いの伝達の場面においては、この頽落は不可避である。しかし、1.3から1.4への展開において捉えられた〈私〉の存在はそんなものではなかったはずだ。そこで言われている以上のことを勝手に読み取ったのだとしても、〈私〉であることは誰にでも成り立つことではなく、その唯一例外的な実例を確かに捉えたはずである。このことを決して手放してはならない。そのためには、書き手と読み手がいる問いの伝達の場面であることをやめ、ただ自分が考えて自分に書いたものとして1節を読むことが有効だろう。

では結局、〈私〉とは誰のことだろうか。書き手にとっては書き手自身であり、読み手にとっては読み手自身ではある。が、唯一現実にそうであるのは、「にとっては」抜きに、この人である。そのように言ってみることはできる。

2.2 〈私〉の累進構造

だが、そのように言ってみても結局は同じことだろう。同じことというのは、要するに、「唯一現実にそうであるのは、「にとっては」抜きに、この人である」と言ってみても、それとまったく同じことを結局は他人も言える、ということだ。

1.4で言われたことを再掲しよう。「驚くべきことだが、世界は本当にこのようになっている。世界は、その人にとってという留保抜きに、この人に中心化されたあり方をしている。そうではないだろうか。これを、この人にとってそうであるにすぎない、と言うことはできない。その人にとっての端的な自他の非対称性しかないのであれば、そのことによっては、同じように自分を識別している人たちの中でどれが私なのかをさらに識別できるはずがないからだ。また、私にとってそうであるにすぎない、と言うこともできない。それぞれの私の中からその私をさらに識別できている理由がここで問われていることだからだ。」驚くべきことだが、これとまったく同じことを他人も主張するだろう(現に永井均という他人が同様のことを主張している!)。書き手と読み手がいる問いの伝達の場面だろうと、ただ自分が考えて自分に書いたものだろうと、そこで言われたことはまったく一般に誰にとっても言えることでしかない。

だが、他人も字面上同じことを言えるとしても、1.4で言わんとしていたことは他人にも言えることでだけはなかったはずだ。他人がどういうあり方で存在しているのか本当のところはよくわからないが、どういうあり方で存在していたとしても、ともあれ他人ではある。そうである以上、この人と他の人は現にあり方がまったく違う、というのが捉えた事実であったはずだ。

しかし、というまさにそのことが他人の立場に立てば他人に成り立っているのだとすると、ここにはある構造が見て取れる。現実に〈私〉であるのはこの人だが、他人も他人にとっては〈私〉であり、他人にとっての他人もまたその人にとっては〈私〉であり……というように、原初の「〈私〉ー 他人」の対立が、他人や他人にとっての他人やさらにその他人や……において反復して現れるという構造がここにはある。このことを図で表せば、以下のようになる。

〈私〉⸻ 他人
      |
     〈私〉⸻ 他人
           |
          〈私〉……

〈私〉という型が、最上段から他人、その他人……へと累進していくこの構造を累進構造と呼ぶ。他人も〈私〉という型を共有するとはいえ、端的には〈私〉ではない。そういった、図で言う二段目以下において〈私〉という型を共有する存在のことを表すのに《私》という記法を導入しよう。たとえば、Dが〈私〉で、A、B、C、Eは《私》だ、というように使う。このこと(最上段と二段目以下ということ)自体にも累進構造は働くので、Eは《私》だが、Eにとっては、Eが〈私〉で、A、B、C、Dが《私》である、と言われることになる。

本筋からは外れるが、ここでひと言述べておけば、〈私〉と《私》に本質的なのは、現にそこから世界が開けていることと「にとって」の水準におけるその反復である。これまで(言葉を話す)人に限って議論を進めてきたが、その対象はもっと広い。少なくとも動物は含めてもよいだろう。

2.3 〈私〉の二重性

さて、累進構造を指摘することによって事態は何か進展しただろうか。すなわち、この私にだけ言えるはずことを言うことはできるようになっただろうか。この道具立てを使えば、事態は以下のように記述できる。

1節は、問いの伝達の場面ではその人にとっての〈私〉のことしか言えていなかった、とはつまり、私は実は初めから《私》について語っていたということだ。しかし、1節をただ自分が考えて自分に書いたものと読めば、それは〈私〉についてのこととして読むことができる。だが、そうは言ってもその〈私〉にも累進構造は働く。だから、1節は現に〈私〉であるこの人について語ったものであると同時に、この人にとっての〈私〉、すなわち《私》について語ったものであることにもなる。

〈私〉について語ることには、累進構造のゆえに、つねにこの二重性がつきまとう。それゆえ、現に〈私〉であるこの人、と言っても、その〈私〉にもさらに二重(多重)の解釈が成り立つことになる。2.1の「〈私〉であることは誰にでも成り立つことではなく、その唯一例外的な実例を確かに捉えたはずである」も、2.2の「この人と他の人は現にあり方がまったく違う、というのが捉えた事実であったはずだ」も、前々段落の「この私にだけ言えるはずのこと」も、実は同様の二重性を持っていた。

こう整理されることで事態は劇的に進展した、とも言える。このことには、この私にだけ言えるはずことを現に言えてもいた、ということが示されているからだ。現実に最上段にいる〈私〉を捉えるのにも、この型は利用することができる。反対に、事態は絶望的だ、とも言える。「この私にだけ言えるはずことを現に言えてもいた」という、まさにそのことが現実の〈私〉でなくても言えることによって、なぜか今はそれに加えて存在してもいる〈私〉を語るための言葉はもはや存在しない、ということが示されているからだ。現に「なぜか今はそれに加えて存在してもいる〈私〉」もまた、この二重性を免れてはいない。

現実の〈私〉の存在が決定的に語れなくなるこの仕組みのもとで、「〈私〉が存在するとはどういうことか」という問いは──それでも問いとして──成立している。

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永井均『転校生とブラックジャック ──独在性をめぐるセミナー──』(2001→2010, 岩波現代文庫)

以前に人に勧めたこともあって、このメモは哲学をあまり知らない人の読み進める助けになることも意図して書いた。ので適宜参考にしてください。
文庫版のページ数を記載しているので、単行本を読んでいる人にとっては少々不便かもしれない。

序章 火星に行った私は私か

■3
「この問題[=私が対等に分裂したとするとどちらか一方が私になるという問題]は重大である。なぜなら、こんな空想的な場面ではなく、この現実において、特定の人物が私であるという事実が存在しているのは、いわば〈神〉によるこの種の原初の選択がすでになされていることを示しているからである。」

この意味するところは初読ではわからないかもしれないけど、気にせず読み進めればいいと思う。次第にわかってくるはず。
〈神〉という意匠が嫌いならば〈偶然〉と読み替えてもいい(と、どこかで永井均自身が言っていた)。

第1章 人称の秘密──デカルト『省察』からの逸脱セミナー

■10-11
ある世界の内部の/一部である存在者にとってはその世界こそが現実である、というのはごもっとも。そこまで直感的でないからこそ理解して心から納得するまで考える必要があるよ。

■12-14
学生Dの言う「これ」がわからぬ。

・「これは夢じゃないか」って疑うときの「これ」であり、
学生D曰く
・つねに必ず現実で、
・その外とは「目覚めた」といえるような連続性がないために、外へ出てしまう可能性をその中で考えることはできないものであり、
学生E曰く
・存在の意味自体が、外部から実在性の判定がなされることを拒否するようにできているから、「ほんとうは存在しないもの」であることができない。
が、先生曰く
・覚めてから「あれは夢だった」と思えるその可能性を先取りして「夢かもしれない」と疑える(その点で連続性がある)ものであり、
・悪霊にだまされて成立しているなら「じつは偽である」といえるように、じつは夢であることもできるもの。

「これ」は「その主体にとっての世界」と呼ぶのがいちばん近い気がしてきた。
学生Bの主張
「世界が異なれば主体も別であるから、どの主体にとっても必ずその世界が現実だ」
に対して、
「主体にとってはその世界の中でしかものが考えられないからその世界が現実である」
と言ってるんじゃないか。
学生Bの主張における「世界」よりは少し広いものを指すかもしれないけど。「目覚めたといえるならそれは依然として「これ」の中」なので。
なんとなくわかったけど、なんとなくわかった状態が一番よくないので自戒。

■17-18
認識論、意味論、現象学、分析哲学、現象学的還元、言語ゲームと哲学用語満載すぎる。わからなかったら読み飛ばしてくれていいと思うけど、一応拙い知識でざっくり説明しとくので話半分でどうぞ。

認識論:われわれが何を/いかに認識しているかを探究する。

意味論:われわれのもつ概念がどうであるかについて探究する。

現象学:われわれにとって現れているもの(〜われわれが認識するもの)をありのままに捉えようとする哲学の分野。

分析哲学:議論を明瞭に整理し、概念を分析する哲学の分野。

現象学的還元:現れているものを、何と把握する以前の"見え"そのものに引き戻して見ること(視覚に限らず)。

言語ゲーム:われわれの言語の使用や、その話される場面・条件・脈絡の全て。それが「ゲーム」たる所以は、その行為の意味の源泉を外部に持たないことにある。言語ゲームに意味や意志を求めることもまた言語ゲームのひとこまであり、その外に出ることはできない。「このような言語ゲームが行われている」ことを根源的と見なす言語観。

■23
「私はほんとうは存在しない」と言うときの「私」は、どういう出自で、どんな記憶を持っていて、身長体重はどうで、容姿はどうで……というようなある特定の人物のことを指している。10-11で学生Bが言っていた「ぼく」のような意味での「私」。

■27
(きみの言う)「これ」は「きみの世界」だ、とはっきり出てきた。「その主体にとっての世界」みたいな説明をしなかったのは、それはつまりどの主体かということこそが問題だったからっぽいね。

■33
先生曰く
「その意味では、独我論は独我論として成立したときには独我論の否定を含んでしまっているともいえる。」

これは多分、「《私》=《これ(世界)》」が言えたときには他の《私》が存在しうることをも示してしまっている、ということ。

■35-36
学生G曰く
「ぼくとGとの関係では、認識論と存在論は独立していることができないんですよ。それがデカルト的認識の本質だと思うんです。だから、「紫式部が源氏物語を書かないこともありえた」に対応しているはずの、存在論(﹅﹅﹅)的でしかも過去(﹅﹅)形の「ぼくがGでないこともありえた」が、ここにおいてだけ、現実(﹅﹅)の認識論(﹅﹅﹅)的事実から遡及的に構成可能なんですよ。存在が認識によって構成可能なんです、しかも時間を超えてです。」

どういうことだってばよ。
存在論は文字通り、何が/いかに存在するかについて扱うもの。
先生曰く「これからのセミナーで問題にしていく」そうなので一旦放置。

■38
先生曰く
「でもほんとうは、その[=諸世界の]うちひとつが、なぜかまさにこれ(﹅﹅)なんだよ。それが現実(﹅﹅)だ。」

初読ではわからないかもしれないけど読み進めて2。

第2章 私的規則の本質──Dのレポート

■41
「記憶ちがいということがありうるためには、それが記憶ちがいであることが分かることにおける(過去の自分と現在の自分の)「一致」にあたる何かが働いていなければならないだろう。」

比べているのは、自明ながら、過去の自分がその時点で経験したものと現在の自分が振り返ったそれ(=記憶)ね。

■46-47
「もし規則の変化が認識され、それが記憶されるなら、その認識や記憶は、変化したその規則には従ってはいないことになる。それなら、その変化を認識し記憶できるための言語規則はいったいどこにあるのか。言葉の意味の規則は、何かを認識し語るための枠組みをはじめて作り出すのだから、認識も記憶もその規則に依拠して成り立つほかないのだ。」

もっともな話だけど、他方で、(記憶力が優れていたら)私的な青(今の自分が青と呼ぶようになったもの)を指して「赤」と言っていたのを覚えていることは可能だよね。なぜなら「赤」などの音声は同様に認識・記憶しているから。だから、「私は青を「赤」と呼んでいた」と語ることならばできる。これって想像してみるとすごく奇妙でおもしろい。

■47
「「きみは過去においてじつはクワスを意図していたのではないか?」と問われたなら、「いえ、プラスです」という確信に満ちた現在(﹅﹅)の応答こそが過去の事実を構成(﹅﹅)するのである。懐疑論者がさらに「いや、きみが考えているそのプラスがじつはクワスであった可能性をきみはどうして否定できるのか?」と問うなら、冒頭に述べた理由により「その問いには意味がない」と答えるべきだろう。」

ここだけ引用しても仕方ないけど、エグいくらい腑に落ちた。すごい。
なぜその規則を(クワスじゃなくてプラスを)選んでいるのかにはまた別の理由を与えられるだろうけれどね。

■
個々の論証(argument)は追えても、論証同士の繋がりというか話の流れを把握するの苦手すぎる😭
どうやって訓練すればいいですか😭😭😭

第3章 「転校生とブラックジャック」──本文の提示と、それをめぐる短いセミナー──

運命論の証明(p9)の敷衍と論駁

1. 準備

A, B, C……:「5/18に太郎が朝食にカレーを食べた」などの具体的な特定の事象、およびそれと後述の記号を組み合わせたもの。例えば、「5/18に太郎が朝食にカレーを食べ、かつ5/18に私は人間学の講義に出た」など。
※真である事象に限らない。すなわち、「5/18に私は人間学の講義に出なかった」なども含まれる。
※運命論に関連する範囲の議論なので、「三角形の内角の和は180°である」など出来事ではないものは含まない。とりわけ既に起きた出来事を考える。

A∧B:Aであり、かつBである。
表にすると以下。T=真、F=偽。

A B A∧B
T T T
T F F
F T F
F F F

A∨B:AまたはBの少なくともどちらかである。

A B A∨B
T T T
T F T
F T T
F F F

¬A:Aでない。
※意味を考えれば明らかだが、¬¬A=A

A ¬A
T F
F T

A→B:AでないかBであるかのどちらかである。¬A∨B。
※「ならば」と読まれるが、日常生活における「ならば」と意味がかけ離れているので注意する必要がある。詳しい話は省くが、「5/18に森田先生が講義中に咳をしたか、5/18に私が人間学の講義に出なかった」は真だが、だからといって「5/18に森田先生が講義中に咳をしなかったならば、5/18に私が人間学の講義に出なかった」が真なわけがないことから何となくわかってもらえると思う。(「任意のAに関して、F(A)→G(A)」となれば、日常の「F(A)ならばG(A)」とそう変わらない。)
※意味から明らかだが、A, A→BからBが導ける(A, A→Bが真ならば、Bは真)。

A B A→B
T T T
T F F
F T T
F F T


ここで、途中計算は省くが、

P Q P→Q ¬Q→¬P ¬P∨Q ¬(P∧¬Q)
T T T T T T
T F F F F F
F T T T T T
F F T T T T

となり、
P→Q=¬Q→¬P(対偶)
¬P∨Q=¬(P∧¬Q)(ド・モルガンの法則)
が成り立つとわかる。

◇A:Aが(論理的に)可能である。論理的というのは、概念レベルで矛盾しない限り最大限に広く可能性を取って、ということである。およそ想像可能ならば論理的に可能と言える。例えば透明人間になることは論理的に可能である。

F(A):Aは不可避的に真であった。
※まず浮かぶ疑問が、F(F(…)…)と二重三重にできるのかということである。もっともな疑問であるが、あとに持ち越す。

2. 前提[P1]〜[P4]の解釈

以下4つの式が(無条件に)真である前提とされる。以下のA, Bは全て変項(特定のものを表してるのではなくて、不特定多数のものが入る)。

[P1]F(A∧B)→F(A)∧F(B)
「どのA, Bに関しても、AかつBであることが不可避でなかった、またはAが不可避的に真であったかBが不可避的に真であった」
わかりやすく言い直すと、
「あるA, Bに関して、AかつBであることが不可避であったとき、Aであったことは不可避であり、Bであったことも不可避である」

これは問題なく正しいと言えると思う。

[P2]F(A)→A
「どのAに関しても、Aが不可避的に真ではなかった、またはAであった」
すなわち、
「あるAに関して、Aが不可避的に真であったとき、実際にAであった」

これも正しいだろう。

[P3]⊢¬A/⊢¬◇A
「どのAに関しても、仮定を置かずにAでないことが導けたなら、Aである可能性はない」

「(左辺)⊢(右辺)」で「左辺から右辺が証明できる」というほどの意味。左辺がないということは無前提に/論理だけで右辺が証明できるということである。「/」は上を置くと下が導けるよ、くらいの意味。
これも問題ないと思う。

[P4]A→◇F(A)
「どのAに関しても、Aでなかった、またはAが不可避的に真であった可能性がある」
すなわち、
「あるAに関して、現実にAであったとき、Aが不可避的に真であった可能性がある」

まず、Aが何らかの事象であるとき、これはまあ正しいだろう。今考えられている可能性は論理的可能性であり、決定論的世界観(起こることは全てあらかじめ決まっているという世界観)も矛盾するものではない。この世界において決定論が成り立っているならば、いかなる出来事も不可避的に成り立っていると言えるからだ。
Aは事象の他に、事象と記号を組み合わせたものも考えられる。それに関しても[P4]が成り立つかどうかは一見して明らかではない。
が、以下ではひとまず成り立っているとして証明を追う。

3. 運命論の証明

「いかなるAについても、現実にAであったとき、それは不可避であった」、すなわち(8)A→F(A)を示すのが目標である。

〈証明〉
背理法で(4)¬F(A∧¬F(A))を示す。
(1)F(A∧¬F(A))と仮定すると、
(1), [P1]より、(2)F(A)∧F(¬F(A))
(2), [P2]より、(3)F(A)∧¬F(A)
(↑この操作は説明してないけど、意味を考えればいけるのは自明)
であるが、これは矛盾する(Aの真偽によらず常に偽になる)。
よって、(4)¬F(A∧¬F(A))
(4), [P3]より、(5)¬◇F(A∧¬F(A))
[P4]に(A∧¬F(A))を代入して、(6)(A∧¬F(A))→◇F(A∧¬F(A))
だから、(6')¬◇F(A∧¬F(A))→¬(A∧¬F(A))(◀対偶)
(5), (6')より、(7)¬(A∧¬F(A))
(7')¬A∨F(A)(◀ド・モルガンの法則)
(8)A→F(A)(◀「→」の定義)

4. 証明の検討

まず指摘できることは、(8)は、事象以外のAに関しても言ってしまっており無駄に強い主張になっていることである。とはいえ、これに関しては「いかなる事象Aについても」とすればミニマムな主張にできる。以下はそう読み替えて(それでも言えることを)論じる。

論証の過程は真っ当であるからして、証明の可否はやはり①F(△)の中にさらにF(□)を入れられるのかと②[P4]が正しいのかにかかっているだろう。

(4)¬F(A∧¬F(A))は文章にすると次:全てのAに関して、「不可避的に「Aであって、かつAであることは不可避ではなかった 」」は偽である。
これが[P1], [P2]のみから導けたわけだが、果たしてどういう意味であろうか。

また、証明で[P4]に代入されているのは(A∧¬F(A))である。全ての事象Aの中で、「Aであって、かつAであることは不可避ではなかった」ものは、「「Aであって、かつAであることは不可避ではなかった」ことは不可避的に真でありえた」とも言えるだろうか。逆に、「Aであり、かつAであることは不可避的ではないが、このことは回避しえた」とはいかなる事態か。
何か起こった出来事が不可避的でなかったとき、(少なくともその時点におけるその場所は)決定論が成り立っていなかったことを示す。決定論が成り立っていなかったこと自体が不可避であったりなかったりするとはいかなる事態か。
ある出来事が不可避的に真であったことと決定論の不/成立が不可避的に真であったこととでは、「不可避的」の意味が違うであろう。前者は世界内における未/決定が問われるのに対し、後者は、後者は……?